クリスチャン 証

神様の働きを妨げる思いの罪、やらないことの罪

オズワルド・スミスが著書の中で24個あげている罪はとても具体的だと思います、思いの罪、やるべきことをやらないことも罪であることを教えていただきました。それらは神様の働きを妨げると言っています。

こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。ヤコブ4:17

この具体的な罪を初めて読んだとき、該当することが多くあり、あまり読みたくないと思ったり、厳しすぎるのではと思ったり、言い訳をしたい気持ちがあったりしました。しかし神様は隠れたこともすべてご存知なのだから素直に御言葉に照らし合わせ、神様の喜ばれないものはすべて悔い改めなければならないことを思い、少しづつ変えられてきていることを感謝します。1日の歩みの中で忘れてしまっていることも1つずつ読んでいくことで気づかせていただけることが恵みです。厳しいと思われることでも聖書と合わせて御心であれば、悔い改め、御言葉通りに歩めるように努力していく心が大切だと思いました。
御心にかなった願いであれば、小さいものであっても正しく導いてくださることを信じます。

***************************************************************
(1)私たちはすべての人を赦しているでしょうか。私たちは、心の中に敵意、憎しみ、悪意を抱いてはいないでしょうか。私たちは恨みの心を抱いてはいないでしょうか。また人と和らぐことを拒んではいないでしょうか。

(2)私たちは怒らないでしょうか。心の中に怒りがわいてこないでしょうか。私たちは、また短気を起してカッとなりはしないでしょうか。時には憤激しないでしょうか。

(3)妬みの感情はないでしょうか。他の人が自分より多く用いられる時、その事が私たちを羨望させることがないでしょうか。私たちは自分よりもよく祈り、よく説教し、より立派な働きをすることができる人に妬みを起こしはしないでしょうか。

(4)私たちは忍耐を失い、イライラしないでしょうか。小さいことが私たちをいらだたせ悩ますことはないでしょうか。どんな場合にも笑顔で静かに、取り乱さないでいることができるでしょうか。

(5)私たちはすぐに、あることに対して気を損じはしないでしょうか。人々が私たちに注意を払わずにいる時、また声も掛けずに通りすぎる時、気にさわる様な事はないでしょうか。他の人たちが重んぜられ、自分がないがしろにされる時、私たちはそれをどう感じるでしょうか。

(6)私たちの心に誇りはないでしょうか。私たちは高ぶってはいないでしょうか。あるいは自分自身の立場と、自分がした事を買いかぶってはいないでしょうか。

(7)私たちは不正直ではないでしょうか。本当に私たちの仕事は開放的で、少しのやましい所もないでしょうか。私たちは量目斤目を使いごまかすようなことをしなかったでしょうか。

(8)私たちは他人の噂をしなかったでしょうか。他人の品性を害したことはないでしょうか。他人の事を言いふらしたり、他人にお節介をしたりしたことがなかったでしょうか。

(9)私たちは愛の心を持たずに苛酷に他人の批判をしなかったでしょうか。いつでも他人のあら捜しをやり、他人の短所を捜すのにきゅうきゅうとしてはいなかったでしょうか。

(10)神に属する物を盗んではいないでしょうか。私たちは神に属する時間を盗んではいないでしょうか。捧げるべき献金を手元に隠してはいないでしょうか。

(11)私たちは世俗的ではないでしょうか。私たちはこの世の華美、あるいは見栄などを愛してはいないでしょうか。

(12)私たちは盗みをしなかったでしょうか。私たちに属さない小さな物を盗まなかったでしょうか。

(13)他人に対し苦い心を持たなかったでしょうか。心の中に憎しみが住んでいないでしょうか。

(14)私たちの生涯が軽薄さに満たされていないでしょうか。私たちの行動は見苦しくはないでしょうか。私たちの行動によって、世間の人が彼らの仲間であると思わないでしょうか。

(15)だれかを傷つけて、その人に償いをしていないというようなことはないでしょうか。ザアカイの精神が私たちの中にあるでしょうか。神が私たちに示された多くの小さな事物を、果たして償ったでしょうか。

(16)何事かを思い煩ったり、気遣ったりしてはいないでしょうか。私たちは物質的および霊的な必要について神に頼ることに失敗してはいないでしょうか。私たちはそれらの物のために、絶えず取り越し苦労をしてはいないでしょうか。

(17)私たちは肉欲的な思いを持ってはいないでしょうか。不純な、清くない想像を心に抱いてはいないでしょうか。

(18)意見を発表する時に真実を語っているでしょうか。誇張した話をしたり、誤った印象を人に与えたりはしなかったでしょうか。偽りを言ったことはないでしょうか。

(19)不信仰の罪を犯さなかったでしょうか。神が私たちになされた全ての事柄にも関わらず、私たちはなお、神の御言葉を信ずることを拒みをしなかったでしょうか。私たちはつぶやいたり、不平を言ったりはしてしないでしょうか。

(20)祈らない罪を犯さなかったでしょうか。私たちは他人のために祷告しているでしょうか。私たちは祈っているでしょうか。祈りのために、どの位の時間を費やしているでしょうか。私たちの生活から祈りを追い出してはいないでしょうか。

(21)神の御言葉をないがしろにしてはいないでしょうか。私たちは毎日何章読んでいるでしょうか。聖書を学究しているしもべでしょうか。私たちは、私たちの霊的食物を聖書から引き出しているでしょうか。

(22)キリストを公に言い表すことを怠ってはいないでしょうか。イエスを恥としていないでしょうか。世の人に取り巻かれている時、口をつぐんではいないでしょうか。私たちは毎日証しをしているでしょうか。

(23)魂の救いのために重荷を持っているでしょうか。失われた者に対する愛を持っているでしょうか。滅びつつある人に対して、同情の思いがあるでしょうか。

(24)私たちは私たちの初めの愛を失ってはいないでしょうか。そして、私たちは、最早神のために燃えてないのではないでしょうか。

 これらのものは消極的に、積極的に神がご自分の民の中に行なわれる御業を妨害しているのです。正直にこれらを認め、それに適する名前をつけようではありませんか。罪とは神が用いられる言葉です。そして私たちが罪を犯したことを認め、言い表してそれを放棄するのが早ければ早いほど、私たちは神が私たちの祈りを聞き、大いなる御力をもって働かれることを期待するのが速やかになってくるのです。なぜ自らを欺くのでしょうか。私たちは神を欺くことはできません。

みことばを反芻(はんすう)する

御言葉の短い一文を繰り返し、深く深く読み込むことを教えられました。
あるメッセージの中で語られた「反芻」という言葉がぴったりだと思いました。

子供の頃聞いた反芻の意味はもともと牛や羊などが「一度飲み込んだ食物を吐き戻して、もう一度咀嚼し飲み込むこと」という意味でしたが、「人間の考え方」についても「繰り返し考え、味わうこと」を「反芻」と表現するようです。
1つの御言葉を繰り返し思い起こすことが、今までなかったのですが、早速やってみました。

1日目「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています(詩篇 119:97)」

2日目「主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません。(詩篇145:3)」

3日目「主はあわれみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。(詩篇103:6)」

4日目「あなたの恵みは大きく、天にまで及び、 あなたのまことは雲にまで及ぶからです。神よ。あなたが、天であがめられ、 あなたの栄光が、全世界であがめられますように(詩篇 57:11、12)」

御言葉を頭の中で繰り返しよく考えて、じっくり味うことにより、自分のものとなっていることが体験できました。朝起きた時に、行き帰りの道で、トイレに行ったとき、仕事の合間に・・・暗唱もできるようになり、感謝です。特に神様の偉大さすばらしさの御言葉が、自分に結びついてくることを感じます。こつこつと続けていけますように。