クリスチャン 証

「なまぬるさ」から「目を覚ます」へ

本当に意識して目を覚ましていなければ、この世の生活の中に浸かってしまうというのが本来の人間の性質ではないかと、最近思います。もちろん常に聖霊に満たされ御力によって生きておられる方もおられると思いますが、これからの時代はさらにこの世と調子を合わせたクリスチャンが多くなるように思います。

「なまぬるく」ならないように、神様も時には試練も許されますが、そのような事があっても試練の時にだけ神様にすがり、それが解決すると自分の思いでやろうとする、この世界の中で生活することを優先とする、そのようになりがちです。
なまぬく生きないためには、常にうえ乾いて求めることが必要であり、かなり意識してないと世に合わせた生き方に自然と流されていくことを感じます。

心が痛み少しずつしか見れませんが、心を引き締められるために、見ることがあります。https://www.youtube.com/watch?

地獄をみせられることの意味の一つは、すべての人が救われなければならないことと同じく、なまぬるさから抜け出すためでもあることを思います。心を引き締めていく必要があります。

本来、私自身がいくべきだったところ(罪の結果である永遠の死)であることと、数知れない拷問があり、決して出ることができないところ、憐れみも許しも一瞬も休みもないことを見る時、どのような方であっても、このようなところへは決して行かないように、救いを伝えていかなくてはいけない。自分自身も聖く生きていかなくてはいけないことを強く思います。

常にイェス様の十字架は自分のためであるという、原点に帰り、永遠の命に感謝して、それにふさわしい生き方をし、いつも目を覚ましていることができるように。


とりなし手の重要さ

お祈り以外の近道はありませんのメッセージより(22分~)

アメリカのリバイバルで用いられたフィニーの働きはダニエル ナッシュによる執り成しの祈りがあったからこそであった。フィニ-がある場所に行く前にダニエル ナッシュを先に送り、霊的なものを打ち砕いて天を開き、準備が整ってからフィニーを迎えて大いなる神様の御業がなされました。メッセージで語られたようにフィニーのような働きは誰もができるわけではないが、切なる執り成しの祈りは誰にでもでき、本当に価値のあるものであることを思います。


執り成し手は代価支払いの覚悟をのメッセージより

本物のとりなしの祈りは、他人のために十字架を背負い、祈れないその人のためにその方の代わりとなって悔い改め祈ること・・・ そのような執り成し手を神様は探しておられます。(10分~)(16分~)

自分もそのようなものとなれますように。

神様の基準【聖さ】

人が思う基準と神様の基準は違います。
神様は本当に聖いお方です。

「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることはできません」ヘブル12:14

「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません」マタイ18:3

・ほとんどの罪は悔い改めたから、少しくらいは残っていても大丈夫
・他の良い行い、働きをしているから・・・
・思いの罪くらいなら多目にみてくださる
人との関係においては普通に思ったりすることですが、御言葉から見る神様の基準は人の考えとは違うことを思います。

自分にとって衝撃的な証は
・その日の朝までは天国にいけるはずであった方が、姦淫の罪により、地獄へ行ってしまった兄弟のこと。
・貧しい人を助けるために勤務先の病院から薬を手配し(盗み)、それをやめなかった姉妹も地獄へいってしまったこと・・・神様は何度もそれをやめなさいと語っておられたそうです。
どのように敬虔に見える、また忠実な働き手であったクリスチャンであっても、日々の悔い改め以外に罪の赦しはないことを私に警告してくださっていることを思います。

聖く生きていくことには困難が伴う時代でありますが、神様の目から見てしみも、しわも、傷もないキリストの聖なる花嫁として御前に立つことができるように、瞬間ごとに歩んでいけますように。

「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです」エペソ 5:26、27







神様の働きを妨げる思いの罪、やらないことの罪

オズワルド・スミスが著書の中で24個あげている罪はとても具体的だと思います、思いの罪、やるべきことをやらないことも罪であることを教えていただきました。それらは神様の働きを妨げると言っています。

こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。ヤコブ4:17

この具体的な罪を初めて読んだとき、該当することが多くあり、あまり読みたくないと思ったり、厳しすぎるのではと思ったり、言い訳をしたい気持ちがあったりしました。しかし神様は隠れたこともすべてご存知なのだから素直に御言葉に照らし合わせ、神様の喜ばれないものはすべて悔い改めなければならないことを思い、少しづつ変えられてきていることを感謝します。1日の歩みの中で忘れてしまっていることも1つずつ読んでいくことで気づかせていただけることが恵みです。厳しいと思われることでも聖書と合わせて御心であれば、悔い改め、御言葉通りに歩めるように努力していく心が大切だと思いました。
御心にかなった願いであれば、小さいものであっても正しく導いてくださることを信じます。

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(1)私たちはすべての人を赦しているでしょうか。私たちは、心の中に敵意、憎しみ、悪意を抱いてはいないでしょうか。私たちは恨みの心を抱いてはいないでしょうか。また人と和らぐことを拒んではいないでしょうか。

(2)私たちは怒らないでしょうか。心の中に怒りがわいてこないでしょうか。私たちは、また短気を起してカッとなりはしないでしょうか。時には憤激しないでしょうか。

(3)妬みの感情はないでしょうか。他の人が自分より多く用いられる時、その事が私たちを羨望させることがないでしょうか。私たちは自分よりもよく祈り、よく説教し、より立派な働きをすることができる人に妬みを起こしはしないでしょうか。

(4)私たちは忍耐を失い、イライラしないでしょうか。小さいことが私たちをいらだたせ悩ますことはないでしょうか。どんな場合にも笑顔で静かに、取り乱さないでいることができるでしょうか。

(5)私たちはすぐに、あることに対して気を損じはしないでしょうか。人々が私たちに注意を払わずにいる時、また声も掛けずに通りすぎる時、気にさわる様な事はないでしょうか。他の人たちが重んぜられ、自分がないがしろにされる時、私たちはそれをどう感じるでしょうか。

(6)私たちの心に誇りはないでしょうか。私たちは高ぶってはいないでしょうか。あるいは自分自身の立場と、自分がした事を買いかぶってはいないでしょうか。

(7)私たちは不正直ではないでしょうか。本当に私たちの仕事は開放的で、少しのやましい所もないでしょうか。私たちは量目斤目を使いごまかすようなことをしなかったでしょうか。

(8)私たちは他人の噂をしなかったでしょうか。他人の品性を害したことはないでしょうか。他人の事を言いふらしたり、他人にお節介をしたりしたことがなかったでしょうか。

(9)私たちは愛の心を持たずに苛酷に他人の批判をしなかったでしょうか。いつでも他人のあら捜しをやり、他人の短所を捜すのにきゅうきゅうとしてはいなかったでしょうか。

(10)神に属する物を盗んではいないでしょうか。私たちは神に属する時間を盗んではいないでしょうか。捧げるべき献金を手元に隠してはいないでしょうか。

(11)私たちは世俗的ではないでしょうか。私たちはこの世の華美、あるいは見栄などを愛してはいないでしょうか。

(12)私たちは盗みをしなかったでしょうか。私たちに属さない小さな物を盗まなかったでしょうか。

(13)他人に対し苦い心を持たなかったでしょうか。心の中に憎しみが住んでいないでしょうか。

(14)私たちの生涯が軽薄さに満たされていないでしょうか。私たちの行動は見苦しくはないでしょうか。私たちの行動によって、世間の人が彼らの仲間であると思わないでしょうか。

(15)だれかを傷つけて、その人に償いをしていないというようなことはないでしょうか。ザアカイの精神が私たちの中にあるでしょうか。神が私たちに示された多くの小さな事物を、果たして償ったでしょうか。

(16)何事かを思い煩ったり、気遣ったりしてはいないでしょうか。私たちは物質的および霊的な必要について神に頼ることに失敗してはいないでしょうか。私たちはそれらの物のために、絶えず取り越し苦労をしてはいないでしょうか。

(17)私たちは肉欲的な思いを持ってはいないでしょうか。不純な、清くない想像を心に抱いてはいないでしょうか。

(18)意見を発表する時に真実を語っているでしょうか。誇張した話をしたり、誤った印象を人に与えたりはしなかったでしょうか。偽りを言ったことはないでしょうか。

(19)不信仰の罪を犯さなかったでしょうか。神が私たちになされた全ての事柄にも関わらず、私たちはなお、神の御言葉を信ずることを拒みをしなかったでしょうか。私たちはつぶやいたり、不平を言ったりはしてしないでしょうか。

(20)祈らない罪を犯さなかったでしょうか。私たちは他人のために祷告しているでしょうか。私たちは祈っているでしょうか。祈りのために、どの位の時間を費やしているでしょうか。私たちの生活から祈りを追い出してはいないでしょうか。

(21)神の御言葉をないがしろにしてはいないでしょうか。私たちは毎日何章読んでいるでしょうか。聖書を学究しているしもべでしょうか。私たちは、私たちの霊的食物を聖書から引き出しているでしょうか。

(22)キリストを公に言い表すことを怠ってはいないでしょうか。イエスを恥としていないでしょうか。世の人に取り巻かれている時、口をつぐんではいないでしょうか。私たちは毎日証しをしているでしょうか。

(23)魂の救いのために重荷を持っているでしょうか。失われた者に対する愛を持っているでしょうか。滅びつつある人に対して、同情の思いがあるでしょうか。

(24)私たちは私たちの初めの愛を失ってはいないでしょうか。そして、私たちは、最早神のために燃えてないのではないでしょうか。

 これらのものは消極的に、積極的に神がご自分の民の中に行なわれる御業を妨害しているのです。正直にこれらを認め、それに適する名前をつけようではありませんか。罪とは神が用いられる言葉です。そして私たちが罪を犯したことを認め、言い表してそれを放棄するのが早ければ早いほど、私たちは神が私たちの祈りを聞き、大いなる御力をもって働かれることを期待するのが速やかになってくるのです。なぜ自らを欺くのでしょうか。私たちは神を欺くことはできません。

みことばを反芻(はんすう)する

御言葉の短い一文を繰り返し、深く深く読み込むことを教えられました。
あるメッセージの中で語られた「反芻」という言葉がぴったりだと思いました。

子供の頃聞いた反芻の意味はもともと牛や羊などが「一度飲み込んだ食物を吐き戻して、もう一度咀嚼し飲み込むこと」という意味でしたが、「人間の考え方」についても「繰り返し考え、味わうこと」を「反芻」と表現するようです。
1つの御言葉を繰り返し思い起こすことが、今までなかったのですが、早速やってみました。

1日目「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています(詩篇 119:97)」

2日目「主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません。(詩篇145:3)」

3日目「主はあわれみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。(詩篇103:6)」

4日目「あなたの恵みは大きく、天にまで及び、 あなたのまことは雲にまで及ぶからです。神よ。あなたが、天であがめられ、 あなたの栄光が、全世界であがめられますように(詩篇 57:11、12)」

御言葉を頭の中で繰り返しよく考えて、じっくり味うことにより、自分のものとなっていることが体験できました。朝起きた時に、行き帰りの道で、トイレに行ったとき、仕事の合間に・・・暗唱もできるようになり、感謝です。特に神様の偉大さすばらしさの御言葉が、自分に結びついてくることを感じます。こつこつと続けていけますように。

頑なな心をも変えることができるお方

救いについて、心が神様から離れている方へのとりなしについて、
なかなか祈りが聞かれないと思うことがあり、仕方がないと思うことがありますが、
イェス様がスーザン・デイヴィスに語られた言葉によって、
励まされ、諦めてはいけないことを思います。

どのような頑なな心をも変えることができるお方であること、
モーセがイスラエル300万の民のために悔い改め、「40日間主の前にひれ伏し、パンも食べず、水も飲まなかった」申命記」9:18とあり、命懸けの悔い改めととりなしの祈りによって、イスラエル300万の民を滅ぼすことを思い直されたお方であることを思います。
熱心な必死の粘り強い祈りを喜ばれることを信じます。神様自身が私よりもはるかに救いたいと願っておられることを信じ祈っていけますように。


キリストの花嫁 今、備えなさい   スーザン・デイヴィス著https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=506582329490843&id=506575906158152

「子どもたちよ、あなたに新しいことを教えましょう。わたしは大い
なる、力ある神です。わたしには、最も頑なな心でさえも変えるこ
とができ、わたしを少しも愛さない者たちを変えることができます
あなたの愛する人たちのためにとりなしの祈りをしなさい。彼らの
ために膝をかがめなさい。熱心に祈りなさい。わたしが、兄弟や姉
妹、隣人、父、母、そして迷い出した子どもたちに援助の手を差し
伸べる者たちを探していることを覚えておきなさい。
あなたの周りの人たちが永遠の地獄から救われるのを見たいと願う
必死な心から祈りなさい。わたしの意向を本当に捜し求める者たち
の祈りに答えることが、わたしの約束です。あなたのすべてをわた
しに明け渡しなさい。あなたの命をわたしの足もとに差し出しなさ
い。あなた自身の将来の計画さえも。そうすれば、わたしは、あな
たの迷い出している家族や友人たちのためのあなたの祈りを聞き、
彼らの冷めた心を癒し、彼らをその神に立ち返らせることができる
のです。しかし、まずあなたが、あなたの役目を果たさなければな
りません。あなた自身をわたしの意向に服従させ、あなたの周りの
人たちを救うために、わたしにあなたの人生を用いさせなさい」

賛美のこころ

どのように賛美を捧げたら良いのか、他の方にあてはまるかわかりませんが、私には3つのポイントがあることを学びました。

①主を見上げて、天国にいる気持ちで賛美をする。
  このことは以前、牧師先生も言われていたと思いますが・・・
  私の場合、黙示録にあるように大勢の人々が主を見上げている光景を思い浮かべ、
  神様を愛する方々と一緒に賛美していることを想像する

②賛美の歌詞を御言葉に合わせる
  賛美をしている歌詞が、ある御言葉と合わさったときに、  
  主のこころと一致したことを感じ、感動します 
  (以前は、歌詞はメロディのみ気にかけていたものでしたが、)

③手を挙げる
  手を高くまっすぐに、前に向かって上げるように示さたように思ったので、最近
  やってみました。主の臨在を感じることができます。
    以前は、形式的なことには否定的で、手をあげることもできなかったのですが、
  手の上げ方と言うよりは、主を強く求める思いが重要ではないかと思います。

これらが合わさる時に、感激の涙がでます。以前は毎週泣いておられる方を見て、不思議な思いでしたが・・・悲しい涙でもなく、嬉し涙でもない涙・・・主が触れられた体験を自分もできたことが素晴らしいし、感謝です。この臨在のうちにいつもいることができますように。

主と一つ心になる

主と一つ心となるとは、難しいことではあるが、すばらしいことだと思います。
自分の思いとは関係なく、「やりなさいと言われればやります」「やってはいけないといわれれば、やりません」「ただ主の思いに従順します」という心となるときに私の中に主がおられるということがわかります。歴代誌の御言葉通りで、その思いの時に私を通して、神様の力が現されるんだという信仰も与えられました。

自分の肉に死んでいくときに、この方にお委ねするときにそのことがなし得ていくことを思います。他の人は関係なく、神様と私との関係だけがそこにあり、たとえ、その思いが小さかったとしても、一つ心となりたいという思いを主はご存じです。
「主に喜ばれる」「神に喜ばれる」で検索すると多くの聖句がヒットします。読んだことのある箇所ではあっても改めて神様に喜ばれるものとなりたいという思いで、読み、実行できますように。


 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。Ⅱ歴代誌16:9

そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。
そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。 Ⅰテモテへの手紙 2:1,3

 こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。
また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。  コロサイ1:9-10


気づかせていただくことが恵みです

聖書には「御言葉を聞くには聞くが悟らない」とマタイ13:14~15に書いてあります。
わたしも今まで多くの御言葉を読んでいたが真理が悟れず、最近になってやっと聖書が神様の言葉であることを心から感じます。
聖書の言葉は人間の理性では悟ることができないことを思います。
また御言葉が今、自分に語られているものとして知り、本当に自分のものとなっていくことは、一方的な恵みであることを思います。聖霊様が真理に導いてくださいます。聖書そのものがそのように語っておられます。自分が知っていると思っているときは受け入れることができず、他のことに心が向いているときには読んでいても御言葉が素通りしていきます。主のみこころがわかるように・・・心から主の前にへりくだって常に気づかせてくださいますように。


詩篇94:12
よ。
なんと幸いなことでしょう。
あなたに、戒められ、
あなたのみおしえを教えられる、その人は。



感情ではなく意思を働かせる

自分が感じるままに行動しないこと・・・それをすることができるのがクリスチャンではないのかと最近思います。

自分の感情、思いを、神様の御言葉に照らして、合っていなければ、修正をしなければならない。それが自分の意志だと思います。どちらをも選び取ることができる自由意志を与えられていることを思います。

肉の思いと、御霊の思いが戦っていることを見極め、意志を働かせて、
御霊の力によって、肉の思いを追い出していくことができるように、ローマの8章には繰り返しそのことが語られていることを思います。
決して感情のままに反応してはいけない。

もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。(ローマ8:1-14)」

詩篇を読む

あるメッセージで1日10章を読みましょうと聞きました。
その内訳は、詩篇5章、箴言1章 マタイの福音書5章~7章・・・

それで詩篇を読むことが多くなりました。
主がどのようなお方なのか、どのように祈ればよいのか、
主を見上げることが大事さを教えていただいています。

わからない部分も多くありますが、
その中に、突然私にぴったりだと思うものがあったりで、5章も読めないことの方が多いですが、わからない部分があっても継続していけるように・・自分のうちにたくわえらられていっていることを信じます。


119:17 あなたのしもべを豊かにあしらい、私を生かし、私があなたのことばを守るようにしてください。
119:18 私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。

御言葉を知る悟る 

不思議なことですが、以前にいっていた教会から移ってきたとき、同じ聖書であるにもかかわらず、御言葉が今までよりわかるように感じました。以前は文字だけを追っていて、あらすじを読んでいるような感じでした。「このことは知っています。聞いたことがあります」・・・というように。

さらに、最近また、深く御言葉を知ること・・・神様の御心として読むことができるように助けてくださっていることを思います。主ご自身が私に語っておらる言葉、そのものであることを感じます。読める量も多く、質も深くなり、このお方のうちにいることが大切だと思います。同じ御言葉でも繰り返し、注意深く読め、わからなかったことも徐々に教えてくださっています。

又、聖書の下に記載されている引照箇所---他の関係する箇所を開くことで、深く読めることを発見しました。、他のことを考えながら字だけを追ってしまっている時でも、引照箇所を読むことで、心が御言葉に戻ることを経験しました。聖書の箇所を開けることも早くなるという良い習慣も与えられました。感謝します。




悪い思いのままでいてはいけない

仕事の応援で広島事務所へ行っていました。現地の方の段取りが悪くそのことで不機嫌になり、怒りに満ちていました。この思いは良くないと思っても感情を抑えられず、宿泊施設についてもその思いにとらわれていました。
以前読んだ正しく裁かれる主の言葉(以下の6~11)を読み直し、許そうとする決心、悔い改めの心が与えられ、ようやく心が穏やかになってきました。翌日も何事もなかったような心で接することができ、良い関係のうちに終えることができ、感謝します。ときどき悪い思いがぶり返されることがありますが、悪いうわさや報告をしないように助けてください。それが主の心であることを知っているのですから



◆預言者たちを通しての最近の二つのイエス様の御言葉
 1. 私は預言者たちの口を通して警告している。
 2. 彼らは私が来ようとしているということを数ヶ月前に聞いた。そして私は準備ができている。
 3. 天国にあるすべてのものは準備ができていて、私は今、最後にのべ伝えている。  4. これが過ぎたらこれ以上延ばすことはないだろう。私の慈悲と慈しみによって、今回、短い時間を延長 している。
 5. あなた方、多くの私の新婦たちよ。準備する瀬戸際に立っていなさい。しかしあなた方はまだ準備がで きていない。
 6. 私は陰口を言い広める人とは結婚しないだろう。
 7. 憎悪と悪意を心に抱いている人とは結婚しないだろう。
 8. 深い悲しみで悔い改めて、すべての人に対する私の許しを求めなさい。(「悔い改めはこのような方法で しなさい」と言った。)
 9. 他の人たちを愛さない人とは結婚しないだろう。
 10. 敵までも愛し、彼らのために祈り、祝福しなさい。
 11. 許さない心を持っている人とは結婚しないだろう。すべての人々に対して愛と慈しみが満ちていない 人とは結婚しないだろう。
 12. 迷える人、傷を負っている人、苦痛を受けている人々に対して、慈悲と慈しみを持っていない人たち とは結婚しないだろう。
 13. 私が彼らのことを裁いて許しを通して彼らの罪を清め白くするようにと、夜も昼も私の前で長い時間 祈らなかった人とは結婚しないだろう。
 14. この世とこの世にあるものを愛する人とは結婚しないだろう。テレビなどのこの世のものに中毒にな っている人とは結婚しないだろう。
 15. 肉体の情欲に燃える人、肉的なものを愛する人とは結婚しないだろう。
16. テレビに自分の問題を相談し、暴力をながめる人たちとは結婚しないだろう。
 17. 私の真実な使役を中傷し、あざ笑っていながら、悔い改めない人とは結婚しないだろう。
18. 夜遅くまでこの世のものを追いかけていて、私を最後に置く人とは結婚しないだろう。
 19. この世とこの世に属したものを愛する人とは結婚しないだろう。何故かと言うと、私はこの世と世の 中のすべての悪事や関心事を捨てることを要求するからだ。
 20. 人を情欲の目で眺める人や、他人のものを望んだり、妬んで欲しがる人たちとは結婚しないだろう。
 21.私を最優先順位に置かない人とは結婚しないだろう。
 22.私を最優先に置きなさい。そして何よりも私を愛しなさい。
 23.私の戒めを大切に思い、それらに聞き従いなさい。
 24.悔い改めなさい。私の新婦たちよ。私は清い新婦のために来るだろう。
 25.すごく早く来ることを警告する。この時、あなた方のうちの多くの人が清くならなければ、私が連れ て行く人はほとんどいないということを警告する。
 26.自分を清くした人がほとんどいない。
 27.私が私の新婦のために来るという警告が足りなかったからではない。私が延ばす時間の終わりが早く 近づいている

『怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
悪魔に機会を与えないようにしなさい。』
エペソ4:26-27

すべて委ねる体験

委ねることは、非常に難しいことですが、非常に大切なことだと、最近思います。
そのために、大切なこと2つ学ばせていただきました。

①神様が全能の力をもっておられる方であることを信じること
この世界を創られ、私をも創られたお方、そして、イェス様を死からよみがえらせられたお方が、この世界のすべてを統治しておられる。
自分にはできないが、この方にはなんでもおできになる
また、御言葉を通して、主がどのようなお方なのかを悟らせていただくこと


②信頼して委ねること
自分で何とかしなくてはと思い、足りない頭でいろいろと考えて、取り越し苦労も多くしてきました。、へりくだって自分の無力さを常に認めることが大事だと思います。
そして、実際に委ねる体験を通して初めて学べました。
このことは、自分でできるので、大丈夫。これはできないから、神様にお願いするような考えが常にあった(今でも)あります。
しかし、自分でできると思ったことも、お委ねする時に最短距離を走らせて(最善をなして)くださる。
ことがわかってきました。

このことができるようになると、本当に気持ちが楽になります。
自分でしようとする領域がまだまだ占めていますが、この割合を変えていけますように、
委ねた結果を知るとき、信仰が益々与えられることを思います。



「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。 
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
    エペソ1:17~21

すべてのことは主のおかげです

与えられた仕事をするにあたって、主が備え、結果も与えてくださっている。
アプローチから過程、クロージングまですべて神様の御手のうちにあることを思います。

昨日は、ある契約が成立し、その結果がはっきりと出た日でした。与えられる前は与えられることを願い、切に与えられることを願っていたのに、与えられたときには、人と比べてしまって高慢な心を持ってしまった。また、不要な不安、心配をしてしまった。人の目を意識し、神様への感謝が足りないことを思います。
自分がしたことは何もないのに・・・過去にも何度もそのようなことがあります。

「すべてのことは主のおかげです」「主が備えてくださいました」と心の内から言えますように。
また、他の方にも証できますように。